エンゲージメントを測定するモノサシとしてのEVP
夏休みが近づいてきました。本稿をお読みいただいている皆さまは、旅行をする際、どのような要素を重視してご自身が向かう先を決定されるでしょうか。費用、時間、観光名所、食、景観。様々な要素のなかで、どういった点に価値を見出すのか、そしてその基準はどういったものなのかについて、読み進めていただく前に少し立ち止まって思いを馳せてみていただければと思います。
私個人はといえば、毎年1度は訪れるほどに沖縄への旅が好きな人間です。確かに費用という観点では、箱根や那須といった東京に近い観光地よりも割高ではあるのですが、沖縄の豊かな自然、なかでも宮古島のとあるビーチの魅力に惹かれ、足しげく通うようになりました。皆さまのなかにも、費用や時間といった、定量的に測りやすく、また他と比較しやすい要素だけではなく、「ここにしかない風景」「ここでしか食べることのできない郷土料理」といった、その土地ならではの体験を重視して旅先を選定される方も多いのではないかと思います。
「従業員エンゲージメント」という言葉が日本企業に浸透し、人的資本の総合的な非財務指標として広く認知されるようになってきました。こうしたトレンドの渦のなかで私たちWTWは、「人的資本に投資をしていくうえでのポイント」を従業員体験(Employee Experience: EX)の4要素をもとに整理し、エンゲージメント調査のなかでもこうした観点での具体的な設問を織り交ぜ、組織の従業員体験の現状を診断いただけるような設計としています。この前提に基づくエンゲージメント調査、そして持続可能なエンゲージメントというコンセプトは、多くのクライアントの皆さまから支持をいただき、またIR等でも活用いただいているところです。
この従業員体験の各領域をさらに具体的に、結果指標としてのエンゲージメント調査のスコアを通じて掘り下げた際に、そのどこに課題があるのかを明確にし、必要な打ち手を講じていく、という流れが、エンゲージメント調査の活用方法のもっとも一般的な例といえるでしょう。
では、「どこに課題があるのか」はそもそもどのように判断できるのでしょうか。そのモノサシとして多くのクライアントの皆さまにご利用いただいているのが、WTWが提供する各種基準値です。先ほどの旅行先の例でいうならば、これは費用や時間といった相対的な比較の色合いが濃いモノサシとなっています。他方で、忘れてはならないもう一つの尺度があります。それが、まさに旅先の風景や食のように、その組織ならではの体験として定義される絶対的なモノサシです。
本稿では、この「モノサシ」という言葉をキーワードに、読者の皆様と以下の2点について考えてみたいと思います。
WTWではこれまでの豊富なグローバルでの調査実績に基づき、自社のエンゲージメント調査のスコアと各種基準値を比較することのできるベンチマークデータをご提供しています。これは組織が今後目指していきたい(あるいはすでに達成しているべき)と考える外部のスコアとの対比という点では効果的なモノサシであるといえます。
しかしながら、特にその組織内部の状況を捉える際、忘れてはならない重要なモノサシが存在します。それが、「この組織に在籍することを通じて得られる体験」を明示化したEVP(Employee Value Proposition)です。人事に関する施策に共通していえることではありますが、従業員体験に関連する取り組みもまた、決してエンゲージメント調査のスコア自体を上昇させることが本質的な目的ではありません。組織の競争力を高めるための価値をもたらしてくれる存在としての人的資本である従業員の体験を、望ましい姿(To-Be)に近づけることが本来の目的であるはずです。エンゲージメント調査を通じて組織の現状(As-Is)を診断したとしても、望ましい姿(To-Be)が組織の内部で明確に定義されていない状態では、対応が必要なのか、必要であるとして何を行えばよいのかを適切に判断することはできません。こうした絶対的な目盛りを有するモノサシが整備された状態であるかどうか、という点が、エンゲージメント調査の結果を踏まえた取り組みを体系的かつ効果的に整備していくことができるかどうかに影響を及ぼします。
では、このモノサシとしてのEVPとは、どのような形式で「この組織に在籍することを通じて得られる体験」を明示化しているのでしょうか。私たちは、EVPは①契約としてのEVPと、②期待される行為としてのEVP、の大きく二つの層に分解することができると考えています。
① 契約としてのEVPは、いわゆる各種人事制度を通じて規定される価値であり、会社と従業員の個人との間で書面を通じて取り交わされるような内容となります。その組織を選ぶうえでの前提としての機能を持つ(=「この会社で働いて良い」という感情を導出する)ものといえるでしょう。他方で②期待される行為としてのEVPは、そのような契約としての法的拘束力は存在せず、たとえば成果を上げた際に周囲が承認や賞賛をしてくれる、というような、信頼や共感と関連づく、組織で働く成員同士の関係性を基盤とするものとなります。主観的かつ感情的な側面が強いがゆえに、それを社内の共通認識とすべく、文書としてのEVP Statementを作成することが一般的です。たとえば、以下のような内容が考えられます。
上記のようなEVP Statementは組織の間での共通認識を醸成するうえでは非常に重要ですが、それが従業員の間で実際に体験されなければ、絵に描いた餅となってしまいます。したがって、仮にStatementの内容が将来的に達成していたいと考える組織の状態にも言及している場合は、各種施策を通じてStatementの内容を実現していく部分までも含めて、期待される行為としてのEVPの範疇であるということが可能でしょう。
先述の2階層のうち、エンゲージメント調査を通じてAs-Isを診断するうえでの分かり易いモノサシとしてこれまで機能してきたのが、①契約としてのEVPです。明文化された枠組み的な存在であるがゆえに、To-Beとのギャップやそれを埋めていくためのアプローチも論理的に導くことが可能でした。他方で②期待される行為としてのEVPは、上段で例示したような明示的な内容として存在するというよりも、「わが社の組織文化や風土は・・・」といった抽象的な、かつ主観的な言葉によって表される傾向にあり、それゆえAs-IsとTo-Beのギャップを埋めるために何をすれば良いのかを適切にデザインすることが難しかったのではないでしょうか。結果として対処療法的に、たとえば「昨年よりもこの組織で大幅にスコアが下がった。何かが起きているらしい。何とかする必要がある」と、個別具体的な課題に対してアプローチはするものの、共通のモノサシが存在しないため、全体最適の観点で打ち手を講じることへの難しさがあるように、クライアントの皆さまとお話をするなかで感じています。従業員体験のなかでも、①契約としてのEVPではカバーできていない部分を測定するモノサシを持つという点で、②期待される行為としてのEVPを設計することは非常に重要な意味を持つのです。
それでは、こうしたEVPは、誰がどのように設計していくことが望ましいのでしょうか。EVPの設計に取り組んだある組織をケースに、プロジェクトのご支援の流れを簡単に以下で整理してみたいと思います。
このプロジェクトの発端は、クライアント企業の組織規模が拡大していくなかで、必要な人材を継続的に獲得していくことの重要性に対する認識にありました。組織の離職率は一定の水準にあり、また昨今人材獲得競争が特に激しい業界のひとつであったため、経営陣の間ではこうした点を重要な経営課題として位置づけていたという背景があります。そのような課題認識をもとに、クライアント内部では自社のこれまでの従業員体験が果たして従業員にとって真に魅力的なものとなっていたのか、という問いが生まれ、EVPの設計プロジェクトへと辿り着きました。
我々WTWではプロジェクトの推進にあたり以下のような4つのSprintを設定し、既に在籍している従業員にとっても、また今後入社を検討する候補者にとっても魅力的な従業員体験を戦略的にデザインするという視点でご支援を行っています。
以上のように、データからAs-Isを捉え、To-Beとのギャップを埋めるためのアクションを考え、その取り組みを実行していくという一連の流れがEVPの構築における主要なポイントになります。そしてその過程では、組織を主語に、経営陣はもちろんのこと、異なる職種の幅広いステークホルダーを巻き込み、彼ら、彼女らの意見を考慮する状況が生じます。EVPの設計は決して経営陣や人事担当者のみが行うものではなく、幅広いステークホルダーの協働によって共創的に行われる営みなのです。
こうした幅広いメンバーのプロジェクトへの参画を通じたEVPプロジェクトの推進の経験から、私たちは当初想定されていた内部的なモノサシを持つという点を超えて、以下のような観点でEVPの設計が組織にとってポジティブな影響をもたらし得ることを実感しました。
1)よりミクロな視点で従業員体験を見つめ直す契機となること
2)プロジェクトメンバーが自組織の存在を定義することで各種人事施策が他人事ではなくなること
ここからは、上記の2つの点についてそれぞれ、具体的にどういった効果があるのかをお示しをしたいと思います。
冒頭で述べたように、エンゲージメント調査は組織の従業員体験の現状を理解する入り口として重要な意味を持つものです。他方で、仮にそれが自由記述設問への回答であったとしても、組織全体に実施するこうした大規模な調査の結果は、全体的な傾向を捉えるためのデータとしての色を帯びる傾向にあります。他方でEVPプロジェクトはVFGやペルソナの設定を通じた従業員体験のデザインといった活動をはじめとして、一定の属性のカットオフを設定し比較的ミクロなレベルでの体験に焦点を当てた検討を行うものです。そこに幅広い属性のメンバーが参加することで、人事領域の担当者のみでは気づきづらかった従業員体験の側面に光を当てることが可能となります(言い換えれば、プロジェクトに参加するステークホルダーは、その属性を代表した人物を選定することが重要です)。こうした発見が、組織が伸長させていくべき、あるいは維持、強化していくべきポイントの明確化に寄与していくこととなります。
EVPプロジェクトは、「いろいろな人事施策を行っても、どうも主管である人事以外の関係者を上手く巻き込めていない」といった状況に対して効果的であると考えられます。このことを考えるうえでの理論的な視座に、組織アイデンティティという概念があります。企業文化という概念をベースとして発展してきたこのアイデンティティという考え方は、「私たちはどのような存在であるのか?」という問いに対する自己認識(=らしさ)として考えることができます[1]。
企業文化から組織アイデンティティへの変遷は、佐藤・山田(2004)をもとに、概ね以下のように整理できると考えます。
| 企業文化 | 1980年ごろの日本企業の躍進によって注目された考え方。超優良企業の調査をもとに、それらが同一の価値観や信念を共有した一枚岩的な組織であることを踏まえ、理念、英雄、儀礼と儀式、文化のネットワークといった要素の重要性を説く。特に儀礼と儀式を通じて、こうした企業独特の価値理念や行動規範は示され、維持されていく。 |
| 組織文化 | 企業文化の考え方を、企業のみならず非営利組織や政府機関等に拡張し用いるもの。組織がユニークな存在として見えるとき、その組織は高いレベルの外的適応力(市場や業界といったその組織を取り巻く環境のなかでのその組織の地位の高まり)と内的統合力(その組織における人々の一体感の高まり)を発揮すると考える。 |
| 組織アイデンティティ | 上記のような文化のユニークさは実態としてはさほどユニークではない要素に収束するという考えのもと、組織が自らをどのような存在として認識するか(自己認識)が基盤となり、外部からの組織イメージとの往還を通じて組織としての独自性と一般性を両立していく。 |
(表1)企業文化から組織アイデンティティへの変遷[2]
先ほどのEVPプロジェクトは、まさにこの組織アイデンティティという考え方を援用した取り組みといえます。Sprint 1やSprint 2における異なる職種ごとでのやりがいや課題の整理は、言い換えればその職種のメンバーが自らの組織や仕事をどのように認識しているのかというアイデンティティを確認、整理するプロセスであり、トップダウン的に目指す姿を規定しその実現のための取り組みを進めていくアプローチとは一線を画すものです。もちろん会社としての方向性、戦略と関連づけながら最終的にAs-IsとTo-Beのギャップを埋めていくためのアクションを取捨選択しますが、そこには組織メンバーのなかでの実際の従業員体験とアクション間の意味づけや解釈が許容されるという前提があり、具体的な取り組みも組織としてのアイデンティティを強化する方向に働く、ボトムアップのアプローチであるといえるでしょう。「私たちはどのような存在であるのか?」という問いに対する答えをその組織で働くメンバーが自分たちで定義していくことで、それに関連する各種人事施策は、参加メンバー自らが直接的、あるいは間接的に策定に関与することとなり、結果としてエンゲージメントの定義でもある「自発的な貢献意欲」を生み出すことにつながるのです。
加えて、幅広いステークホルダーが参画し自らの経験を語ると同時に、その他のメンバーの経験に耳を傾けるという行為そのものが、自らの職種、部署におけるアイデンティティをその他の組織との対比を通じて見つめ直し、ひいては会社全体としての「私たちはどのような存在であるのか?」という統合的なアイデンティティ(=らしさ)を形成していくことにもつながっていきます。そしてプロジェクトに参画したメンバーが自組織に戻った際には、伝道師として、EVPを体現しアイデンティティを強化する役割を果たすこととなるのです。そのような流れを通じて、作成されたEVPというモノサシは組織全体で共有され、共通の目線として定着していくこととなります。
ここまでの内容を踏まえ、EVPを設計しその実現に向け各種具体的な人事施策を推し進めるという一連の流れが持つ効果は、以下のように大きく3点にまとめることができそうです。
さて、改めて冒頭の旅行先の選定に関する話題に戻りたいと思います。私が沖縄(宮古島)を旅先として選ぶのは、そこにしかない体験としてのビーチの存在があるからでした。もちろん費用や時間といった相対的なモノサシも意思決定に影響する要素ではありますが、数回の近場の旅行を我慢してでも沖縄に行きたい、と思わせるなにかが、そこにはあると感じています。
本稿でご紹介したプロジェクト事例を振り返ると、クライアントの課題感は人材獲得にあり、その解決に向けた切り口の一つとして、WTWがより戦略的にデザインされた従業員体験の構築のご支援を提供したという経緯がありました。
特に日本国内では今後労働人口が減少し、企業は求職者を選ぶのではなく、求職者に選ばれる存在としての色合いをますます濃くしていくことが想定されます。そのようななかで、「私たちはどのような存在であるのか?」という問いに対する答え(=らしさ)を有すること、すなわち組織としての明確なアイデンティティを有することは、競合他社との差別化を図り、「この会社で働きたい」と従業員に感じさせるうえで非常に重要であるといえるでしょう。そしてそこには①契約としてのEVPの側面だけではなく、②期待される行為としてのEVPの両面が存在することが必要であることは、これまで述べてきたとおりです。
私たちコンサルタントはしばしばクライアントの皆さまから、成功事例としてのベストプラクティスはなにか、と問われます。他社の取り組みは自社の打ち手のヒントとなる部分もある一方で、「らしさ」という点では必ずしもそこに寄与するものとはならない可能性があります。N=1の、そこにある体験に着目をし、それらを大切に拾い上げながら戦略的な従業員体験をデザインし実現していくこと。それこそがこれからの時代、特に重要な視点といえるのではないでしょうか。
都内の私立中高一貫校での教員経験を経て、現職。人事組織領域のなかでも特にEVP(Employee Value Proposition)をはじめとする戦略的な従業員体験の設計に関するプロジェクトを中心に担当する。写真や映像といったクリエイティブな分野でのプロとしての経験も活かしつつ、従業員コミュニケーション資料のディレクション等も行う。