米国新規則に見る、日本企業への示唆
本題に入る前に、クローバック条項の定義を確認したい。クローバック条項とは、不祥事や財務諸表の修正等をトリガーとして、支払い済みの業績連動報酬の一部または全部の返還を求める取り決めである。
注意すべき点として、クローバックは、トリガーとなる事項が発生した場合に必ずしも発動されるわけではない。報酬委員会が発動要否を議論し、発動が必要と判断された場合のみ、報酬返還が実施される、といった二段階のプロセスを経る。また、当該条項は、支給前の報酬を減額ないし消滅させる取り決めであるマルス条項とは異なるという点にも留意したい。
トリガーとなる事項や返還対象期間等の規定は各社各様ではあるものの、日本の大企業においては既にクローバック条項を導入済みの企業が多数を占めており、ガバナンス強化の一手段として徐々に定着しつつある。
近年、そのクローバック条項の重要性がさらに増している。その背景には、大きく二つの要因がある。
一つ目は報酬水準の観点である。日本企業の報酬水準は増加傾向にあり、特にインセンティブ報酬の増額幅が大きい。したがって、誤った業績結果に基づき不当に支払いが行われた場合の影響も増大している。
では、報酬水準が低ければ問題がないのかと言うと、そうではない。二つ目の観点は、投資家からの見え方である。米国では2023年10月2日以降、NYSEおよびNASDAQに上場する企業に対して、財務諸表の修正再表示をトリガーとしたインセンティブ報酬のクローバックが義務化された。この新規則の施行に伴い、投資家はインセンティブ報酬の設計とクローバック条項の導入を一体的なものとして捉え始めている。投資家がクローバック条項を重要視している以上、報酬水準が低いことは対応をしないことの言い訳にはなり得ない。
また、米国新規則において、財務諸表の遡及修正が行われたにもかかわらずクローバックを発動しない場合はその理由の説明が求められている。したがって、今後は投資家が発動状況について言及するようになる可能性も低くはない。
日本企業は、クローバック条項に関する規制を「米国の話」として傍観していて良いのだろうか。本稿では、投資家の目線がグローバル化する今、日本企業の取るべき姿勢について考える。
米国では2010年の金融規制改革法(ドッド・フランク法)成立以降、主に不祥事を契機とした発動事例が見られた。例えば、2017年に米国の大手金融機関Wells Fargoにおいて、クローバックが発動された。不正口座の開設を黙認したとして、同社は役員2名から総額7,500万ドルの報酬を回収している。
以前は、前述の事例と同様に、米国においても企業が独自の規程に基づいて対応を行っていた。しかし、2023年10月以降、各社は新規則への対応に迫られている。前述の通り、新規則では財務諸表の修正再表示をトリガーとしたインセンティブ報酬のクローバックが義務化されている。
対象企業が取るべき対応は大きく3つに分けられる。まず、新規則に沿ったクローバック条項の改定。次に、あわせて義務付けられている同条項の開示。そして最後に、トリガーとなる事象の発生時への備えである。条項の改定や開示は事前の形式的な対応で概ね完結するが、トリガー事象発生時は報酬委員会による臨機応変なリードが求められる。これは、トリガーや発生時の自社の状況は事前の想定が困難であり、予め事細かなルールを定めておくことができないためである。
「臨機応変な対応」とは具体的にどういった対応を指すのか。WTWの米国チームでは、新規則が適用される全企業に対して、共通して以下の4つのプロセスを踏むことを推奨している[1]。
1つ目のプロセスは、報酬委員会による対応チームの編成と対応計画の策定である。センシティブなテーマを短期間で取り扱うため、報酬委員会のリードとチームの連携が不可欠だ。
2つ目は返還金額の算定である。財務指標に連動する部分について、修正前後の数値を用いて返還額を算定する。中でも難易度が高いのは、TSR等の株価指標に連動する部分の取り扱いだ。大抵の場合は、類似する状況に置かれた1つまたは複数の企業の株価の動きを参考にすることになる。いずれにせよ、外部からも合理的と認められる推定方法が求められる。
3つ目は返還方法の決定である。支給前の報酬を減額あるいは消滅させるマルスとは異なり、クローバックでは対象役員の返還能力の確認が必要になる。特に、返還額が大きくなればなるほど、委員会と対象役員のコミュニケーションが重要となる。
最後は、計算結果や対応過程の文書化である。これは、トリガーとなる事象が発生した場合、企業には対応とその根拠の開示が求められるためである。将来の発動時にも参考にできる。
新規則によって発動が義務化されている以上、施行から年月が経つにつれ、発動する企業も増えるだろう。対象企業には、冷静かつ合理的な対応が求められる。
翻って日本企業の状況を見てみると、クローバック発動事例はほぼ存在しないと言える。例えば、ENEOSホールディングスが2023年にクローバック・マルス条項を発動した旨のリリースを出しているが、本稿で論じる「支払い済の報酬の返還」には該当しない。
日本では、コーポレートガバナンスコードにより導入が推奨されてはいるものの、クローバック条項に関する法的な規制はなく、導入は任意である。当然、未導入の企業も少なくないのが現状だ。しかし、導入が任意であるからこそ、日本企業はガバナンスの姿勢を問われているともいえる。
今回の米国新規則はADR を NYSE 又は NASDAQ に上場する外国籍企業にも適用される。このため、該当する日本企業は米国企業と同様に対応を完了しており、それに追随するかたちで、投資家の目線を意識した企業が次々と導入やポリシーの開示を進めている。これに伴い、クローバックは役員報酬やコーポレート・ガバナンスに関する議論において、重要なアジェンダの一つになりつつある。投資家の注目度を鑑みれば、たとえ米国の新規則の対象とならない日本企業であっても、まずは検討に着手することが望ましいだろう。
クローバック条項は厳しければよいというものではない。経営陣のモチベーションや適切なリスクテイクを阻害しないよう、自社の状況に即した条項になるよう十分に検討し、発動時には報酬委員会が柔軟にリードすることが重要である。
米国新規則の施行以降、機関投資家のクローバック条項への注目度は上がっている。新規則の対象とならない日本企業も例外ではない。
各社は、制度を不祥事等に対する一時的な対応としてではなく、業績と連動した透明性の高い役員報酬制度を維持する仕組みとして認識しなくてはいけない。今やクローバック条項は、役員報酬やガバナンスを論じる上で、欠かせない論点となっている。