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特集、論稿、出版物 | 人事コンサルティング ニュースレター

人事は人的資本開示にどう取り組むべきか

執筆者 中山 大輔 | 2023年2月14日

2023年3月から日本で人的資本開示の義務化が始まります。人的資本開示に対し、人事は具体的にどのように取り組むべきかを考えます。
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日本における人的資本開示の状況

2022年11月、金融庁からの人的資本開示の方針が発表され、2023年3月より有価証券報告書の提出義務のある大手企業を対象に、「人材育成の方針や社内環境整備の方針及び当該方針に関する指標の内容」と、公表している企業は「女性管理職比率」、「男性の育児休業取得率」及び「男女間賃金格差」について有価証券報告書で開示することが義務化されました。

人的資本開示に関しては、議論が先行している欧米の流れを受けて国内でも注目を集めており、2022年3月に人的資本開示のガイドラインであるISO30414の認証をアジアで初めて取得したリンクアンドモチベーションや(2022年10月には豊田通商もISO30414を取得)、人材版伊藤レポート2.0で紹介されている19社をはじめ、ますます多くの企業が取り組みに力を入れはじめています。

こうした中、弊社にも多く企業からお問い合わせをいただいており、「人的資本開示」は特に大手企業の人事部門にとって避けて通れないテーマとなっていることが伺えます。今後、開示に取り組む企業はさらに増えていくことが予想され、人事部門は対応の検討を迫られるでしょう。

人的資本開示を前に悩む企業

人的資本開示というテーマに対し、企業および人事はどのように取り組むべきなのでしょうか。先述のとおり、既に開示に注力している企業が複数ある一方、クライアント企業とお話する中で、今一つ方向感を掴みかねている企業が多いと感じます。なぜ人的資本開示というテーマは難しいのでしょうか。

1つ目の理由は、先述の義務化された開示項目以外、具体的に開示するべき内容が定められていないという点です。2022年8月に金融庁から発表された人的資本可視化指針には、開示すべき項目が明確に定められておらず、考え方のみが示されており、どのような情報を開示すべきか企業側が検討しなければなりません。

2つ目の理由は、人的資本開示による会社へのメリットが分かりにくいという点です。人的資本は財務指標のように直接的な企業価値として表れないものであり、開示に取り組むことで果たしてどのようなメリットがあるのか、もしくは取り組まないことによるデメリットがあるのか、そもそも労力をかけてまで開示に取り組むべきかどうかが分からないというのが、多くの人事担当者が感じていることではないでしょうか。

人的資本開示に向けた実務上の疑問

これらの背景を踏まえ、クライアント企業とお話する特に多く出る疑問について考えてみます。

Q1.何のために開示するのか?

そもそもの人的資本開示の議論の始まりとしては、企業価値向上における人的資本の重要性が高まってきたことで、人的資本に関する開示発信の要請が高まってきたことにあります。つまり、企業価値を正しく判断したいと考えている人達に、自社の人的資本および戦略がいかに企業価値に貢献しているかを示すことが本来の目的と考えられます。

開示項目を検討する中では、人的資本に関する自社の取り組みの正しさや、いかに一所懸命に取り組んできたかを主張することに力点が置かれがちですが、重要なのは

  • 「誰に向けて開示するのか(読者は誰か)」
  • 「読者にどのような印象を与えたいのか」

という点です。その意味で、開示は理念的なメッセージやスローガンを語ることに偏り過ぎることなく、一歩引いて読者がどのような情報を求めているのか、ニーズを想像しながら検討することが重要となります。人的資本を開示する際の想定読者としては、大きく以下の3つが考えられます。

  1. 投資家
    投資家に向けては、投資に値する会社であると認識してもらうことが目的となるでしょう。人的資本に注力することで競争力が向上する蓋然性が高いことを示すことが重要であり、特にKPIや指標を定量的に示すことで説得力が増します。また、投資家がどのような観点で投資判断をしているのか、自社がどのような投資家に投資してもらいたいのかというポイントを踏まえて開示項目を組み立てることが必要となります。
  2. 従業員
    従業員に対しては、エンゲージメント向上やリテンションの観点が重要と考えられます。会社として育成や働く環境の整備に注力していることを示すことで、この会社にいることで成長できる、もしくは安心して働き続けられそうだ、と思ってもらうことが目的となるでしょう。自社の従業員が働く上で何を重視しているのか、どのような施策を求めているのかを踏まえた開示、あるいは会社としてどのような従業員を求めているのかを発信するという観点で開示を組み立てることが考えられ、場合によっては社員の声などの定性的な情報も有効と考えられます。
  3. 採用候補者
    採用候補者に対しても、従業員向けと近い考え方になりますが、この会社に入れば成長できそう、あるいは安心して働けそう、と思ってもらい、入社に向けた動機づけを図ることがポイントとなるでしょう。

また、別の観点では、開示に向けて社内の人材戦略や人的資本の状況を整理するというプロセス自体に意味があると考えることもできます。この人的資本開示の流れを契機として、経営における人的資本の位置づけや重要性を再確認すること、人材戦略が今後の目指す姿を整理すること、施策の定量的な効果測定を促し、人材戦略のROIを高めることなどにより、人材マネジメントのレベルアップにつながっていく可能性があります。

Q2.何から始めればいいのか?

まず、初手としてやるべきでないことは「ストーリーの裏付けなくフレームワークに従い、情報を開示すること」ことです。開示することの目的は、先述のとおり「想定読者に対し、望ましい印象を与えること」だとすれば、ただ開示項目を揃えるだけでは効果は期待できません。例えばISO30414では49の項目が定められていますが、これらを全て開示しさえすれば投資家や従業員に良い印象を与えられるかというと疑問です。重要なのは意図をもって情報を整理・開示し、ストーリーを伝えることであり、ただ開示項目を揃えることは効果的でないばかりか、一度開示するとあとで変更しにくくなるなどのリスクがあります。開示義務化には対応しつつ、その他の項目に向けては、焦ることなく効果的な開示に向けてしっかり準備することが重要です。

開示に向けて取り組むべきことは、大きく以下の3つが考えられます。

  1. 情報収集
    まず「他企業がどんな開示をしているか」を確認することが重要です。欧米をはじめ、国内でも先進的な企業はすでにかなり充実した人的資本開示を行っていることから、十分参考にすることができます。他社事例を見る上では、

    • 多くの企業が開示していて、自社が追随すべき項目は何か
    • 戦略や取り組みなど、他社と自社の違い(独自性)は何か

    という観点で見ることが有効でしょう。
    また、社内の情報収集も必要となります。具体的には、例えば社内で行っている人事施策や、使用可能な定量情報の棚卸です。これらの情報収集作業を通して、自社として何ができていて何ができていないのか、現在地を知ることがまずは重要となります。

  2. 人的資本ストーリーの整理
    人的資本ストーリーの整理とは、経営における人材戦略の位置づけと目指す姿を明確化することです。具体的には、「なぜ人的資本向上に取り組むのか」「何を目指しているのか」「目指す姿のために何に取り組むのか」といった内容を言語化すること、および経営と認識を共有することです。そのためには人事内で検討するだけでなく、経営陣との対話により、経営において人的資本をどのように捉えているのかを確認し、その上ですり合わせを行うことが考えられます。

    ストーリーの例として、例えばゴールドマンサックスのPeople Strategy Report(2020)では、冒頭に以下のストーリーが極めて明快に示されています。

    • 「企業としての成功の原動力は社員である」 (=なぜ人的資本向上に取り組むのか)
    • 「“Commitment to Excellence”の企業文化を構築し続けることを目指す」 (=何を目指しているのか)
    • 「そのために“世界中から人材を効果的に採用すること”,“育成・報酬などを通して社員を動機づける”,”クライアントや地域に貢献できる機会を創出する”ことに取り組む」 (=何に取り組むのか)

    背骨となるストーリーが明確になれば、おのずとどのような項目・情報を開示すれば良いかが見えてきます。

  3. 定量・定性データの準備
    定量・定性データの準備は、実際に開示する情報を用意することを指します。具体的にはまず、整理した人的資本ストーリーを効果的に示すにはどんな情報が必要か検討することです。その上で、不足している情報があれば開示に向けて準備することが必要でしょう。例えば先ほどのゴールドマンサックスのストーリーで言えば、効果的な採用に注力していることについて、「採用人数」、「採用に係る費用・時間」などをセットで示すことで、取り組みの効果を示すことができると考えられます。

開示に向けては、これらの取り組みについて、ロードマップを作成しつつ、計画的に取り組むことが必要になるでしょう。

Q3.どのフレームワークに従うべきか?

金融庁の人的資本可視化指針には具体的な開示項目の指定はなく、また、参考として複数のフレームワークが示されており、対応が悩ましいところです。しかしながら現状、スタンダードとなっているフレームワークが確立している訳ではなく、「どのフレームワークに従うべきか?」に対して明確な答えは無いというのが実情です。各社の開示を見ても、ISO30414への準拠を明記している企業は別としても、どのフレームワークに従っているのか必ずしも明確にしている訳ではありません。まず出発点として自社のストーリーを定め、それを説明する上でフィットするフレームワークを参照するというのが現実的な向き合い方と考えられます。とはいえ、今後に向けて複数の企業が開示に取り組む中で、一定の“型“が形成される可能性は考えられます。海外含めた他社の開示事例から、どのような項目・要素がスタンダードとなるのか注視し、対応を考えていくことも必要でしょう。

人的資本開示は人事の中でおさまるものでなく、経営や財務経理、広報などを巻き込んだ一体的な取り組みが必要となり、人事にとっては非常に労力がかかる取り組みです。一方でこの人的資本開示の潮流は、昨今経営における人事の重要性がますます高まっていることを示しています。単なる開示要請への対応ではなく、これをきっかけとして前向きに人的資本戦略を構築し、経営における人事の役割を再定義することが求められているのではないでしょうか。

執筆者

コンサルタント
Employee Experience(EX)

日系大手鉄鋼メーカーにて工場人事職を経て現職。主にジョブ型人事制度など等級・報酬・評価制度設計および導入支援や、エンゲージメント調査の実施・分析のコンサルティングを担当。そのほかにも人的資本開示支援や、監査部による人事制度監査の支援などのプロジェクトを担当している。


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