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執筆者 吉田 尚秀 | 8月 2017年

日本人は働きすぎ、というある種の神話がある。もちろん、個人差や企業差が大きな話なので、「日本人」と一括りで語ることは憚られるものの、統計的に言えば日本の平均労働時間は極端に多すぎるわけではない。
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日本人は働きすぎ、という通説

日本人は働きすぎ、というある種の神話がある。もちろん、個人差や企業差が大きな話なので、「日本人」と一括りで語ることは憚られるものの、統計的に言えば<図1>日本の平均労働時間は極端に多すぎるわけではない。

だから日本人が働きすぎではない、と結論づけるのは拙速である。この統計はいわゆる非正規型雇用や時短勤務者など、そもそも期待される労働時間が最初から短い人の割合が増えると見た目の数字が減る仕組みとなっているため、「一人当たりに期待されている労働時間」に対する「実際に働いている労働時間」の多寡、をこの統計だけで議論することは難しい。

具体的に何時間働いているのか、それが「働きすぎ」なのか、という直球ど真ん中の論点は、ひとつの統計データだけでもこのように定義自体から紐解いていかなければならず、様々な諸先輩が既に色々な説を出されているところでもあるため、本稿ではちょっと手を抜かせていただいて、斜めからこの「日本人働きすぎ」神話を考察してみよう。

原因が「労働時間」ではないとしたら?

筆者の周りでも「日本人は働きすぎだ」と言う非日本人は多いが、どちらかと言えばSalaryManやKaroshiといったステレオタイプで語られることが多いので、適当に聞き流すことにしている。しかし、よくよく話を聞いてみると、自国でも残業は当然に発生しているし、サービス残業もあれば、休日にメールや電話で仕事をさせられているという不満も多く出てくる。

じゃあ大差無いじゃないか、と思うのだが、「理由はともかく、日本人は働きすぎだ」というのが大方の見方である。少し調べてみたところ、諸外国の方々から日本企業の印象を聞いた調査でも、「残業が多い」に肯定的な回答が91%とやはり高い結果が出ていた<図2>。(回答者の半数以上が日本企業での就労経験がある)

こうなると数字の議論に入りたくなるのが世の常だが、そこをぐっと我慢していただき、「仮に全く同じ労働時間でも日本人は働きすぎに見える・感じる」という大胆な仮説を置いてみよう。そうすることで、単純な労働時間だけでは解消が難しい、または労働時間問題とセットで変えてゆかなければならない文化や価値観、環境といったソフトイシューが見えてくるはずである。

4つの「働きすぎ」仮説

全く同じ労働時間でも日本人が働きすぎに見えるとした場合、それは業務そのものか、成果・結果、あるいは業務を与えられるシチュエーションに対する満足度・納得感の問題となる。以下にそれぞれを具体的に考えてみよう。

  1. なんでやるのかわからない説
    業務そのものへの満足度・納得感が低いというのは、なぜその業務を行わなければならないかの目的共有が不十分であることが原因と考えられる。例えば膨大な社内稟議や事前調整などがあまり無い文化圏からすれば日本は「働きすぎ」と見えるかもしれない。ただ、これは不要なのであれば削ればよく、必要だからやるのだとすれば、その必要性を丁寧に説明することで解消可能と思われる。

  2. もっと効率的に終わるはずだ説
    成果・結果への満足度・納得感というのは投入時間とアウトプットを比較した際の生産性が低いことに起因する。中でも、作業効率は限界無く上を目指せるものであることから、「もっと無駄を削れ」と半ば精神論のように生産性向上が謳われやすい。ただ、非日本人が言う「無駄」は 1. の文脈(この仕事は無駄だろう)であることが多いというのが筆者の印象で、本当に日本人や日本企業の生産性が低いのかは慎重な判断が必要である。また、その生産性をどこまで(時間をかけずに)高められるかという点にも注意が必要で、このポイントに関しては 3.でも触れる。

  3. もっと効率的に稼げるはずだ説
    2. が生産性を「ある作業の結果として得られた成果物」で評価したのに対し、「労働対価として得られた報酬」という労働者目線で生産性を評価することもできる。そうした場合には「あんなに働いたのにこれだけかよ」という不満が生まれる可能性が考えられる。外資系企業は報酬水準が高い、というのはもはや通説だが、弊社調査によれば<図3>、スイス・アメリカ・シンガポールあたりが頭ひとつふたつ抜けている印象はあるものの、日本の報酬水準がそこまで低いようには出ていない。

    むしろ問題は購買力平価(PPP)で置き換えた場合の水準にあるように思われ、ベトナム・スロベニア・アルゼンチン・トルコあたりと競っている日本と、アメリカとでは実に7割程の開きがある。これがどういうことを意味するかと言えば、生活の豊かさを同じような水準で実感しようとすると日本ではアメリカの7割増しで働かなければならないということであり、確かに「日本人は働きすぎ」である。

    生産性といった時にはどうしても成果物に対する業務効率に目が向きがちだが、その生産性をアメリカの7割増しにしようというのは結構な高いハードルで、少なくとも報酬面での改善も含めた検討を進めなければ労働力が国外に流出する、または他国からの獲得がうまく行かない現状を打破することは難しいであろう。

  4. 価値観がおかしい説
    業務を与えられるシチュエーションに対する満足度・納得感は、元々聞いていた仕事や、(ネガティブな意味でも)元々期待していた仕事であればそこまで低下するとは想定しづらい。なので、聞いていなかった仕事が増えるとか、または想定していた以上の仕事を振られる、という時に問題が起こると考えられる。 前者(聞いてない仕事)は職務記述書や契約という文化が弱い日本の特徴であろうが、これに関しては登用の柔軟性が日本企業の強みとなる場面も多いことから、さほど筆者は懸念していない。一方、後者(想定以上の仕事)は課題が大きい。

    論理的な裏付けや根拠が無くて恐縮だが、日本では残業を前提とした業務配分・アサインメントを多々見かける。と言うよりも、ある仕事をある人に与えた場合にどれだけの労働時間を投入しなければならなくなるか、という点がほとんど考慮されていないように思われる。なので、この等級、このポジションならこれくらいはやってもらわないと、とタスクを振り、時間がかかるのは個人の責任、何時間かけてでも終わらせろ、という話になってはいないだろうか。

    人事関連業務に携わる方々にとっては釈迦に説法だが、「時間管理」というのは働いた時間をカウントすればよいのではなく、自身では稼働時間のコントロールが難しい社員に対し、適正な時間で稼働が収まるように管理するのが本来の目的である。更に言えば、残業というのは「イレギュラー対応」として特に稼働が必要なスポットで依頼するものであり、それが常態化するというのは明らかに異常である。その異常事態が蔓延しているとすれば、日本の外から「働きすぎ」と見られ、敬遠されても当然であろう。(そして当の日本人はそれが当たり前となっているので気づかない。)

「働き方改革」で改革すべき意識

駆け足で概観したので表面的になってしまったが、以上のような点から日本人の「働きすぎ」を考察すると、そもそもの労働時間という問題に加えて、低い報酬水準と恒常化した残業、という大きな構造的課題が見えてくる。これらは今の人員体制で現状の利益構造を維持しようとすると手出しが難しく、個別に解決しようとしてもなかなか進まない課題である。だからこそ、働き方改革というより大きな取り組みの中で同時に解決してゆくべきものとも言える。

報酬水準問題にはより経営的な観点からの検討が必要で、これについては紙面の都合上割愛させていただくが、どちらかと言えば即座の取り組みが難しいハード面の課題であろう。一方の残業恒常化問題、特に「残業を当たり前のものとして業務を割り振る」という点については、明日からでも改善を検討することが可能なテーマであると筆者は考えている。人事のみなさまが働き方改革に取り組む際の視点のひとつとして是非加えていただき、日本全体としてより良い働き方が少しでも実現されるようになれば幸いである。

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