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タレントマネジメントの潮流と展望(中編)

〜ヒューマンキャピタルマネジメント再考〜

執筆者 平本 宏幸 | 2020年8月5日

ヒューマンキャピタルマネジメント(Human Capital Management (HCM): 人的資本管理)という概念が、コーポレートガバナンスの文脈で大きな関心を集めています。ヒューマンキャピタルという言葉自体はすでに広く知られたものであり、特に組織人事の領域においては決して目新しいものではありません。なぜ今、ヒューマンキャピタルマネジメントが脚光を浴びているのでしょうか。本稿では、その背景を概観するとともに、その意味合いを論じます。
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「人的資本」とは

そもそも、ヒューマンキャピタル、人的資本とは何かという問いは、古くは18世紀の英国、アダム・スミスに遡ります。アダム・スミスは、『国富論』のなかで、仕事に用いる機械・道具、利益を生む建物、改良された土地に加えて、四つ目の「固定資本」として人の「能力」を挙げ、以下のように論じています。

「労働者がもつ上達した器用さは、同様の観点から、労働を促進したり、短縮したりする機械や仕事道具と考えることが可能であろうし、しかもそれは、一定の費用を要するとはいえ、利潤とともにその支出を取り戻すのである。」*1

産業革命が進展する只中において、分業化と大量生産がなされるために蓄積される資本の一つに人的資本の存在がすでに明示されており、それは費用をかけて訓練することによってその費用が回収可能なものとなると整理されています。

今から200年以上前にこのような概念が生まれていましたが、その後、人的資本という概念が広く知られることとなったのは、1970年代以降の米国のゲーリー・ベッカー教授の業績によるものです。ベッカー教授は、人的資本という研究分野そのものを開拓し、伝統的に人の能力は所与のもので企業はそれに見合った賃金で雇用すると考えられてきたことに対して、人間を機械や工場などと同じ資本ととらえ、教育・訓練(投資)を受けるほど労働生産性は向上し賃金も増大する*2、と分析しました。学校教育や職業訓練などの教育活動が人々の所得や生活、社会に与える影響を明らかにし、現実の社会経済政策に大きな影響を与えたことで知られています。

このように、経済学においては古典的な理論に留まらず政策に結びつくような実証的研究としての知見が生まれたものの、経営の実務では「人材はヒューマンリソースではなくヒューマンキャピタルである」などのような抽象概念としての説明にとどまってきました。企業経営における実務的な展開としては人材育成や動機づけ、リーダーシップ開発などの人事に関する施策に関連したもの、いわゆるナレッジマネジメントなどの人が持つ「知」や「情報」に焦点を当てた組織開発など、ヒューマンキャピタルという概念そのものよりも、それぞれの分野において具体的な展開が見られるというのが実態でしょう。ヒューマンキャピタルという言葉自体も、必ずしも確固たる定義がない中で、少し使い古された印象すらお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。そのような中で、なぜ今ヒューマンキャピタルマネジメントが注目されているのでしょうか。

産業構造の変化と高まる投資家の関心

その背景には、高まる投資家の関心があります。具体的には、2017年に年金基金等の主要な機関投資家からなるヒューマンキャピタルマネジメント連合(HCMC)が米国証券取引委員会(SEC)に対して人的資本の開示を開示規制に組み込むよう要求*3したことが一つの大きな出来事です。また、2019年にSECの諮問組織である、機関投資家等の投資家代表で構成されるSEC投資家諮問委員会(IAC)によりSECに提示された開示規制強化への提言*4においても、下記のような主張が展開されています。

 「今日、企業は価値創造の源泉を従業員にますます依存するようになっている。事実、多くの精力的な企業において、人的資本は価値の主要な源泉(primary source of value)である。工業製品からテクノロジーとサービス中心の経済に移行する中で、知的資本や人的資本などのインタンジブルな資産に関する開示を含めることが重要になってきており、人的資本は投資可能な資産という概念としてますます認識されている」

本提言においては、このような考え方が、「S&P500の企業価値においてインタンジブルな資産の比率が1975年では2割未満だったものが2015年では9割近くを占める」という事実を示しながら、冒頭にはっきりと提示されています。つまり、米国における産業構造が転換し、テクノロジーとサービスが主要な産業となった結果、企業の競争力の源泉が人の能力やスキルに大きく依拠しはじめ、人的資本のような目に見えない資本が企業の価値創造に大きく影響する状態に至ったために、投資家に対する開示においても人的資本を投資判断材料として目に見えるように開示することが必要である、ということが投資家サイドの主張の骨格です。

その主張には、開示が義務付けられている主要な経営者の報酬の方針や水準・インセンティブなどの具体的内容、また昨今注目されているPay-Ratio(CEOと従業員との報酬格差の指標)の開示にとどまらず、人員構成(正規・非正規等)、離職率、構成比(多様性等)、スキル・能力、カルチャー・エンゲージメント、健康・安全、生産性など、人的資本管理についての多岐にわたる情報を開示することが含まれています。

こうした動きを受けて、SECも人的資本を「a mission critical asset」*5であると位置づけて情報開示規則の修正に着手、人的資本の具体的な数値等を開示に盛り込むことが検討されています。また、企業側においても、取締役会の下部組織としてヒューマンキャピタルに関する委員会を設置する、あるいは報酬委員会におけるアジェンダに経営陣のサクセッションプラン等の報酬以外の項目を盛り込むなどの動きもあり、人的資本をより広い視点から監督・管理するという気運が生じています。

他方で、こうした動きが日本には関係のない出来事であるかというと、必ずしもそうではありません。日本においても政府の未来投資会議における「成長戦略フォローアップ案」*6のなかに「経営環境の変化に応じた人材戦略の構築を促し、中長期的な企業価値を向上させる」観点から「人的資本情報の見える化」が盛り込まれており、このような動きは必ずしも海外に限定した動向に留まらない状況となっています。投資家がグローバルな視点で投資をすることを考えれば、米国と全く同じ環境にはならないとしても、次第に状況が変わっていくことは十分に想定されるでしょう。

起きている変化の意味合い

このような昨今の動きは、企業にとってどのような意味合いを持つのでしょうか。もちろん、将来的な開示の強化を見据えて、開示すべき指標を検討することも必要になるかもしれませんが、開示はあくまでステークホルダーへの情報提供にすぎません。投資家に対する見せ方ももちろんのこと、企業の価値向上という点でより重要なことは、企業が不確実性の高い環境下で、成果が目に見えにくい人的資本への投資をどのような仕組みで実行しているのか、その進捗がどのようなものかが、将来の価値創造のストーリーに合致していて理に適っているかということです。その観点では、投資家の関心が高まっている中で、「人を大切にする」「人材を育成する」といった日本企業が伝統的に持っていた強みが、経営環境の変化に合わせて、企業価値につながるようなシステムとして実装されているかを振り返り、見直していくよい契機ととらえることができるでしょう。非常に基本的なことではありますが、以下のような視点から、改めて企業の長期的な戦略と人的資本との関連性を捉え直すことが有効と考えます。

  • 人的資本に対する基本的な考え方
  • まずは、人的資本に対する基本的な考え方を明らかにすることが出発点です。そもそも、人的資本への投資は、どのように自社のビジネスのリターンや長期的な価値創造につながるのでしょうか。例えば、人的資本への投資以前に戦略上の課題が大きい場合には、人的資本を考えること自体の優先度は下がるのかもしれません。その逆に、組織や人の能力そのものが競争力の源泉となっている場合には、そこに惜しまない投資をすることが必要不可欠となるでしょう。

    その際に、社員のスキルや能力、あるいは意欲・コミットメントを高めるために、報酬水準自体をひきあげることが投資として理に適うのでしょうか、それとも無駄な業務を減らして生産性を高めるためのスキル開発やインフラ投資をすべきでしょうか。社員全体を一律で考えて底上げをすべき場合もあれば、研究開発やエンジニアなどの特定の機能や職種、あるいは少数のリーダーやリーダー候補にのみ絞り込んでリソースを注ぎ込むことが効果的かもしれません。そのような場合、そもそも差をつけるという考え方が社員の総意として許容されるかどうかも、意思決定が必要な論点となります。

    あるいは、そもそもどのような人材の組み合わせを考えるべきかも論点となります。従来の人材を育てることに注力すべきでしょうか、あるいは外部から積極的に人材を登用することで時間を買うことが重要になるでしょうか。それは組織の文化に対して小さくないポジティブ・ネガティブな影響を与えうるかもしれませんし、それを受け入れてでも時間をかけて大きな変革を実行しなければいけないタイミングが迫っていることもあるでしょう。

    このように、人的資本への投資自体が、会社にとってどのような意味を持つのか、基本的な方向性や指針を持つことがまずは最初のステップとなります。

  • 長期視点で投資すべき対象
  • そのうえで、長期的な価値創造の視点から、何に対して優先順位を高めて投資すべきか、という人材戦略を持つことが不可欠となります。業界や取り巻く事業環境によって人的資本の重要性は異なります。設備やインフラ、蓄積された顧客基盤が価値創造の源泉となるビジネスと、個人やチームの創造的な活動や顧客接点での優れたサービスやアイディアによって差別化がなされうる場合とでは、そもそもの人的資本への投資の程度やその内容が変わってくるでしょう。

    あるいは、事業の成長フェーズによっても違いが生じます。成長期にあり、それを支える人材を積極的に獲得してリテインすることが重要な場合には、エンゲージメントや従業員体験、そしてそのために人材を引き付けるようなカルチャーを有していることが極めて重要となりますが、成熟した事業において人材のスキルチェンジや新陳代謝が重要となる場合にはリカレント教育や長期的な動機付け、キャリア設計などが重要なテーマとなります。

    また、グローバルでの成長と積極的な人材の活用が必須となる場合には、ダイバーシティ&インクルージョンを具体的に推し進めることや、それを支えるフェアな文化や共通した人事のプログラムを世界中で確立することの優先度が極めて高くなると考えられます。一方、日本国内における事業が中心である場合には、むしろ性別や世代、プロパーと中途といった様々な属性の人材が同様に活躍できるように、同質的な人材を前提としていた仕組みや運用を変えていくことに主眼が置かれるでしょう。

    このように、人的資本について一様にすべて取り組むことが重要なのではなく、何に着目することが重要か、どのような人的資本への投資が価値創造につながるか、人的資本に対する戦略的重要性を定めることが重要となるでしょう。

  • 人的資本のリスクマネジメント
  • 他方で、特にガバナンスという観点からは、人的資本に関するリスクについて考慮することが重要となります。

    例えば、経営・事業の持続的な成長という観点から、リーダーシップのパイプラインが充実しているか、またそれを可能にするサクセッションプランやリーダー開発の実効的な仕組みがあるか否かは、特に長期的な視点で大きなリスクにつながりかねないものです。この点は特に投資家の視点からも重要性が高く、取締役会やその下部組織である委員会において適切な監督がなされるべき事項となります。

    鍵となるような重要な人材の離職が進んでしまい事業に大きなダメージを与えることは、未然に対処すべきリスクと考えられます。特に事業環境の変化が激しく人材の獲得競争が激化している機能においては、エンゲージメントの状態や離職率をモニタリングしつつ、報酬水準の競争力やインセンティブの適切さや個々人の評価の妥当性を精査し、きめ細かく対応していくことが必要となるでしょう。もちろん、そうしたリスクが限定的かどうかは、先に述べた人材戦略によって大きく異なります。

    また、世界的な事業を展開し、多くの国で多様な人材が働く企業であれば、コンプライアンスの問題は勿論のこと、個別拠点のマネジメントの巧拙によって社員のエンゲージメントが下がり、事業に大きな影響を与える可能性も考えられますし、本来維持されるべきカルチャーが失われ、企業のブランドを傷つけるようなリスクも内包することになります。こうした状態をどうモニタリングするかは、グローバル展開する企業において重要な人的資本管理の取り組みとなるでしょう。

    あるいは、COVID-19を例に挙げるまでもなく、ストレス下や環境激変下において、生産性を維持しながらも社員の健康や安全を疎かにしないような運営ができるかどうかは、企業が考えるべきリスクとして重要なものです。

    このようなリスクマネジメントの観点からも、人的資本に関してどこに焦点を当てて取り組むべきかが変わってくると考えられます。

以上、近年注目と集める論点であるヒューマンキャピタルマネジメントについて、背景を概観するとともに考えられる示唆をまとめました。人的資本管理というより広い視点から人事の施策をとらえることは、単なる投資家からの要請にとどまらず、企業の価値向上において今後の経営の重要なテーマとなっていくことは間違いないでしょう。本稿がそのような視点で今後の展望を持つための一助となれば幸いです。


出典

1 アダム・スミス. 「国富論(上)」

2 ゲーリー・ベッカー. 「人的資本 教育を中心とした理論的・経験的分析」

3 https://www.sec.gov/rules/petitions/2017/petn4-711.pdf

4 https://www.sec.gov/spotlight/investor-advisory-committee-2012/human-capital-disclosure-recommendation.pdf, Recommendation of the Investor Advisory Committee Human Capital Management Disclosure March 28, 2019 

https://www.sec.gov/news/public-statement/clayton-remarks-investor-advisory-committee-032819

6 https://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/miraitoshikaigi/dai40/siryou1-2.pdf

執筆者プロフィール

シニアディレクター
Employee Experience(EX) 統括

入社以来、人・組織に関する課題解決を通じた変革支援のコンサルティングに一貫して従事している。人・組織に関するソフトな課題を主として扱う部門を統括。近年は特に、経営者の後継者計画、指名委員会運用支援、リーダー開発・エグゼクティブアセスメント、タレントマネジメントの戦略構築・実行支援において豊富なコンサルティング経験を有する。


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